20:16 戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。
20:17 イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』
20:18 その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」
20:19 そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。
「戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」とイエス様が言われたことに対して、これを聞いた祭司長・律法学者たちは、「そんなことがあってはなりません」と言いました。
「そんなことがあってはなりません」というのは、ブドウ園の農夫たちが主人の遣わした僕たちや息子さえも袋叩きにして殺してしまったことについて言及しているのです。彼らもそんなことはしてはならないことだと自覚していることですが、本当には自覚していなかったということでしょうか。
このたとえ話を自分のこととして見つめなおし、自らの罪を認めるということにはならなかったようです。路傍に打ち捨てられている石を、神さまが拾い上げて、神の救いの御計画を実現する隅の親石として下さいました。
ここに言われている「隅の親石」とは、家を建てる時になくてはならない土台の石であり、建築の言葉で言えば「大黒柱」といってもよいでしょう。これは多くの人々には見捨てられるような石のようなものであったイエス・キリストのことを指し示しています。
ベツレヘムの馬小屋からゴルゴダの十字架に至るまで、イエス様は、人々に捨てられたような人生を送りながら、私たちのまことの救い主としてのお働きを実現してくださったのでした。
祈り
天の父なる神様、ぶどう園の農夫たちは、自分たちが主人によって養われていること、たくさんの恵みによって日々生かされていることを自覚し、主人のためにぶどう園を管理して行くはずのものでした。そのような有様を見ながら、そうなることを知りながら当初から計画しておられた救いの御計画を実現していかれるのです。あなたのくすしき御業を感謝いたします。
イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。