神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。ローマ8:9~10

けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています(新改訳)

 

神に導かれてイエス・キリストを信じる信仰を与えられた人には、神の御霊がそのうちにおられます。しかし、御霊が内におられても、主は私たちの自由な意思を尊重して働かれますので、私たちが御霊に従って生きていこうとするのか、それとも肉の思いに従って歩もうと決断するかによって、御霊の働きを消してしまうことにもなってしまいます。

 

ですから、肉の思いによってではなく、御霊の思いによって歩むように勧められているのです。主イエスは、私たちに「天の父」との交わりのうちに生きるようにと教えてくださいました。

 

御霊に導かれる者は、神を愛して「アバ、父」と呼ぶのです。主の日に私たちは集って礼拝していますが、この礼拝がどのようなものかというと、ある意味でこれは、一同で声を揃えて「アバ、父」と呼ぶ会であると言うことができます。一緒に神に祈りをささげ、天の父に感謝をささげているのです。

 

この方が私の父であると信じている子供は、親の期待に応えられないことも多いのではないかと思いますし、大したことができるわけではないでしょう。しかし、「アバ父よ」と心を父に向けて、父の愛を覚えながら、父の心にお応えしたいと思うのです。

 

聖書全体を貫いている主の民の大いなる慰めは、「わたしが共にいる」という主の約束です。御霊によって歩むとは、主がともにいるという約束を信じて、この方こそわたしの主、わたしの父であるという信頼の心にあるといえるでしょう。この方に信頼し、すべてをお委ねして一歩を踏み出していく時に、主が私たちのあゆみを確かなものとしてくださるのです。

 

祈り

 

天の父なる神様、あなたが私たちを選び、あなたの恵みによって、あなたとともに生きる者としてくださることを感謝いたします。真実にわたしの父である方の下に帰ることが出来、あなたの愛に支えられ、あなたの恵みのうちを生涯歩み続ける者とならせてください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。