では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。ローマ3:9~12

では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。(新改訳)

 

ローマ人への手紙1章18節から3章20節までの長い段落において、パウロは、「人間はすべて罪人であって、救いを必要としている」ということを述べています。また、特に、3章9節から20節までにはそのまとめが記されているといえます。

私たちのうちにあって、罪の支配がどこまで行き渡っており、どこまで浸透しているのかを旧約聖書の引用を連ねてパウロは説明しています。詩篇14篇1~3節、詩篇53篇1~3節が引用されています。

「神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。主は天から人の子らを見渡し、探される/目覚めた人、神を求める人はいないか、と。だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。」(詩編14:1~3)

 

「正しい者はいない。一人もいない。」という言葉を読んだとき、あなたはどのように感じたでしょうか。私はこれを最初に読んだとき、それはあまりにオーバーな表現ではないか。中には正しいことをする人もいるのではないかと思いました。

しかし、正しさ=義の規準は、神ご自身であるということを聖書から教えられ、神ご自身に出会う時、また、自分自身のあり方を振り返る時、やはりすべての人が神の前に罪人であるといわざるをえません。

 

モーセを通して律法が与えられ、これに従うようにと求められていますが、私たちは誰も、この律法に従うことの出来ない者です。ローマ3:20には、「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」と言われているように、神を知り、律法において神の御心を示されていても、それに従い得ない自分であることを覚えずにはいられません。

 

祈り

 

天の父なる神様、

 

旧約聖書以来、聖書は神が聖なるお方であり、私たちも聖なる者であるようにと教えられています。しかしこのことを思い巡らせるならば、私のうちには罪があり、私は救われる必要のある存在であるということです。

しかし、裁き主であるあなたは、主イエスを遣わしてくださるほどに私たちを愛してくださるお方です。あなたの愛の深さ広さを知るものとならせてください。どうか罪人のわたしを憐れんでください。

主イエスの御名前によって祈ります。アーメン。