3:27 では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。

 3:28 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。

 

神様は、私たち一人一人のことを大切なひとりとして覚えてくださっています。その人がどのような国のどのような民族であろうとも、どのような境遇にある人であっても。その人は神のかたちに似せて造られた人なのです。

 

だからこそ、神は罪の中に堕ちてしまった私たちを救うために、そのひとり子をもお与えになったのです。「行いの法則ではなく信仰の法則による」というのは、画期的な出来事ですね。

 

おそらく多くの人々に、「あなたは天国に行けると思いますか?」と尋ねたなら、「私もそれなりに善いこともしてきたから」でも「前科〇〇犯のようなあの人は駄目でしょうね。」などと考えるのではないでしょうか。これは自分の尺度で考えているにすぎませんが、重要なことは神の尺度によればどうなのかということなのです。

 

祈り

 

天の父なる神様、「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」という人間には思いもよらない方法で、私たちを罪と死の束縛から解放し、救いの恵みをお与えくださることを感謝いたします。

イエス・キリストの御名によって祈ります。