それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、/裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。それに、もしそうであれば、「善が生じるために悪をしよう」とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。ローマ3:3~8

 では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。「善を現わすために、悪をしようではないか。」と言ってはいけないのでしょうか。――私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが、――もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。(新改訳)

 

なぜ、神様は罪を犯したものを裁き、怒りを下されるのでしょうか。それは、神が義なるお方であり、聖なるお方であり、愛のお方であるからです。

神が造られたこの世界において、不正がはびこり、そのために人々が苦しんでいるとすれば、何よりも神ご自身の威信が傷つけられているのです。

 

「神がおられるなら、どうしてこの世界にこれほど悪がはびこり、災害や病気などによって苦しんでいる人がたくさんいるのか」という人に出合ったことがあります。

聖書はどのようにしるしているでしょうか。神は、この世界を悪いものとして創造したのでしょうか。いいえ、神が見ても、とても素晴らしいという世界を造られたのです。しかし、人間が神に背いて罪を犯したために、罪や死、病気や労苦、災害や争いが入ってきたのだと聖書はしるしています。

 

罪と死が入ってしまったこの世界にあって、神はご自分に反抗する人間を愛しておられ、その一人ひとりが自分の罪を認めて救われることを願っておられるために、裁きを遅らせておられるのです。しかし、この世界を造られた神は、終わりのとき、この世界に決着を着けられるときがあるのです。

 

この3章の1~8節までの箇所で、パウロは、神の真実、神の正しさを強調しています。その中で人間が本来の人間の姿から離れてしまっていることを指摘しているのです。本来の人間は、神を神として、神とともに生き、その愛に対して神に倣う者として応答する人格的な存在として創造されたのです。

 

祈り

 

天の父なる神様、この世界の有様を見るとき、至るところで神様の御名が踏みにじられ、偽キリストがはびこり、偽りのものが、あるいは人間自身が自らの栄光を得ようとしている。罪の世界であることを思います。

この世界の価値観によってではなく、あなたのみ言葉によって、御霊に導かれて私たちの日々の歩みを進めていくことができますように。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。