こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。ローマ12:1

 

そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です(新改訳)

 

12章1節には、クリスチャンライフの基本線が記されているといえます。クリスチャンとなったものは、自分自身を「神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげ」ることがその生活の中心となる生き方であるといえます。クリスチャンの生活は、神を礼拝することがその中心となり、軸となり、礼拝において私たちの考え方、生き方が規定されてくるのです。

 

それは、ヨハネの黙示録において、天では神への礼拝が絶えず捧げられていることからも分かります。かってエジプトの奴隷となっていたイスラエルの民は、神によって、エジプトを出て自由の民として神に礼拝を捧げるべく出エジプトを行なったことがわかります。神の御心が天で行われているようにこの地上においても行なわれていくように祈り、その御心に生きるのです。

 

私たちは、しばらく前にイエス・キリストが復活なさったイースターの礼拝を行ないました。イースターの際に読まれる聖書の箇所、例えば、マタイによる福音書28章8~9節には、復活の主イエスに出会った女性たちのことが記されています。「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。」(マタイ28:8~9)

 

神を礼拝する姿がここに描かれています。

あるいは、ヨハネによる福音書20章にも復活の主イエスに出会った弟子たちのことが記されていますが、彼らも復活の主イエスを見たときに主イエスを礼拝しています。「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。」(ヨハネ20:26~28)

 

トマスはここで、「私の主、わたしの神よ」といったことが記されていますが、これは主イエスを礼拝している姿と言えます。イエス・キリストを知ることはそのまま礼拝をすることに結びついており、礼拝を捧げるとは、ただ会堂に集まって行なうことばかりではなく、神を神として自分自身をささげて生きることが、神に受け入れられる礼拝なのです。イエス・キリストの生涯はまさにそのような生涯であったことが分かります。

 

祈り

 

天の父なる神様、イエス様のご生涯は、そのすべてがご自身を父なる神に聴き従い、神にお捧げする礼拝のご生涯であったことを覚えて御名を讃美いたします。私たちも王の王、主の主であるあなたをあがめ、あなたの栄光のために日々を歩み続けることができますようにお導きください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。