食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります。肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。ローマ14:20~23

食べ物のことで神のみわざを破壊してはいけません。すべての物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような人のばあいは、悪いのです。肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、そのほか兄弟のつまずきになることをしないのは良いことなのです。あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。(新改訳)

 

前回は人につまづきを与えないようにすることが言われていましたが、今日の箇所においても「肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、そのほか兄弟のつまずきになることをしないのは良いことなのです。」と言われています。パウロがこの手紙を書いたころには、奴隷もいましたし、貧富の格差が大きく、肉を食べることが出来た人は限られていたようです。また、酒を飲むことで、多くの金銭を使ってしまったり、酔って醜態をさらすような人もいたようです。

 

旧約聖書には、きよい動物と汚れた動物をわけることが教えられていました。レビ記には、「あなたたちは、清い動物と汚れた動物、清い鳥と汚れた鳥とを区別しなければならない。動物、鳥、すべて地上を這うものによって、自らを憎むべきものにしてはならない。これらは、わたしが汚れたものとして、あなたたちに区別することを教えたものである。」(レビ記20:25)と言われています。動物の捧げものをささげる時には、汚れた動物を捧げることはできませんでしたし、汚れた動物を食べると自分の身が汚れると考えられていました。

 

このため、ユダヤ人たちは汚れた動物に触れたり、その肉を食べることを避けてきたのです。しかし、新約の時代になると、神はむしろそのような区別をすることがないように、神はあらゆる動物を清めておられることをペトロに語られるのです。

 

彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がした。しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」

すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。(使徒10:10~16)

 

この出来事によって、ペトロは、神がユダヤ人だけでなく、異邦人をも愛しておられ、招いておられること、異邦人にも福音を伝えていくべきことを知らされるのです。今日では、旧約聖書に教えられている汚れた動物の肉(例えば豚肉)を食べたことで良心の痛みを覚えるような人はひとりもいないと思います。この箇所に言われた出来事は、きよい動物と汚れた動物とを分けてきたユダヤ人に対して、もはやそのような区別が必要ないこと、ユダヤ人と異邦人という区別によって人を分け隔てることなく、ともに神の民として生きることを神は願っておられることを教えています。

 

祈り

 

天の父なる神様、私たちは、人との出会いの中で、いつのまにかランク付けをしたり、区別をしたり、評価を下したりしているものですが、そうした中で、人によって接し方が違ってくるということがあります。その人が会社の社長であったり、日雇い労働者であったり、ホームレスであったり、子供であったり、実に様々な方々との出会いがあるのですが、イエス様は、人を分け隔てをしたり差別するようなことはなさいませんでした。あなたが人をごらんになられるように、私たちの心をも新しくしてください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。