私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。コリント人への手紙第二5:8-10
最近は災害が多いことを思います。先日もNHKでは、「東南海地震に備える」ことについての番組を放送していました。住民が災害に備えて準備しておくことで、実際に災害が来た時には5分の一も被害が軽減されると言われていました。何月何日の何時何分に、どこの町でどれくらいの地震が来るということが分かっておれば、住民はそのために備えたり避難したりすることでしょう。
しかし、東南海地震の場合は、今後30年以内に大規模な地震が来る確率が80%と言われています。30年以内というのはかなり幅がありますから、備えるのも大変に思われます。いつ来るかわからない災害のために備えることの大切さが言われていますが、死の時までに、主イエスを信じて救われたものとなることを、この人生の最優先課題とするように教えているのです。私たちひとりひとりにとって、いつ来るかわかりませんが、必ず来るものは「死」であり「死んだのちに裁きを受ける」時が必ず来ると言われています。
前回は、クリスチャンにとっては、死は新しい命への入り口であると申しました。イエス・キリストを私の救い主として受け入れるということは、死への備えであると言えます。人生は、この世がすべてではありません。むしろ死後の永遠の時に比べれば、この世の暮らしなど点のようなものでしかないのです。この永遠のいのちという世界を希望として持ちながら生きるのがクリスチャンであるということができます。
祈り
天の父なる神様、私たちはいつかは死を迎える時が来ることは知っていても、死の意味を追求することもなく、死に備えることもなく、死に対してはなすすべもなく、避けるようにして暮らしているように思われます。
多くの人々が、主イエスとともに、その罪を贖われ救われた者として安心して日々を過ごすことが出来ますように。
イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。