聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。ローマ10:11~13

聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。(新改訳)

 

私たちが住んでいるこの社会においては、「信頼したけれども失望させられた」ということがしばしばあるものです。しかし、「主を信じる者は、だれも失望することがない」ということは何とありがたいことでしょうか。この方に信頼する限り、決して失望することがないというのが聖書の約束です。

 

神は、先ずユダヤ人たちを選び、彼らにみことばを与え、彼らのうちに救いのみ業を実現してくださいましたが、約束された救いはユダヤ人であれ、日本人であれ、区別なくその信仰によって救われることが出来るのです。「ユダヤ人とギリシヤ人との区別はない」と言われています。神は分け隔てなさらないお方なのです。

 

「主を呼び求めるすべての人に対して」、神は御恵みを、豊かに与えてくださいます。そのような深い恵みに富む神に私たちは信頼しているのです。これまでにパウロは、神の恵みの豊かさを述べてきたということが出来ます。その一方で人間の罪の深さ、弱さについて記してきました。

 

神の前における自分自身のあり方を振り返るとき、「私は、こんなに愚かで、こんなに弱くて、こんなに罪深くて、神の御前にどうして立つことができようか」と思ってもおかしくないでしょう。ルカの福音書15章にある放蕩息子のたとえに出てくる弟息子もそうした思いを持ちながら、父親の元に帰っていったのです。

 

父親である神様は、そのような弟息子を自分の息子として受け入れてくれました。そのように「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。

 

祈り

 

天の父なる神様、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」というあなたの恵みを覚えて心より感謝いたします。かっては私の主を知らない者でしたが、あなたのお導きによって、あなたを私の主として覚えつつ、御名を呼び求めることが出来ますことを感謝いたします。

あなたが与えてくださる祝福の大きさを覚えながら、生涯主を呼び求めるものとならせてください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。