12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

 

パウロは、弱さ、侮辱、窮乏、迫害、行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足していると記します。ここで大切なのは、「キリストのために」という言葉です。パウロは、自分が弱さ、侮辱、窮乏、迫害、行き詰まりの状態にあっても、キリストのためならば、満足している、なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからだと言うのです。

 

 弱い時にこそ強いというのは、先のみ言葉にありましたように、私たちが自分自身の無力であることを自覚し、キリストにより頼む信仰に生きている限り、キリストとパウロはしっかりと信仰において結びついており、キリストの恵みのうちに生きることが出来るということです。

 

 「わたしは弱いときにこそ強い」と言えるのは、パウロだけではありません。すべてのキリスト者は、「わたしは弱いときにこそ強い」と言うことができるのです。そして、それゆえに、自分の弱さを受け入れて、キリストにあって満足することができるのです。「わたしの恵みはあなたに十分である」という主イエスの御言葉を、私たちは弱さの中でこそ、聞くことができるのです。

 

祈り

 

天の父なる神様、イザヤ書57章には「高く、あがめられて、永遠にいまし/その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる。」(イザヤ57:15)と言われているように、あなたは打ち砕かれてへりくだる者とともにおられます。そのような者としてあなたと共に歩み続けることが出来ますように。

イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。