神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。ローマ11:29~32

神の賜物と召命とは変わることがありません。ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。(新改訳)

 

この言葉の背景には、イザヤ書59章のみことばがあります。イザヤ書59章は次の言葉ではじまります。「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が/神とお前たちとの間を隔て/お前たちの罪が神の御顔を隠させ/お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。」(イザヤ59:1~2)

 

人々の罪が神と人との間を隔てていることを指摘していますが、このまま終わるのではありません。59章の終わりには次のように言われています。「主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると/主は言われる。これは、わたしが彼らと結ぶ契約であると/主は言われる。あなたの上にあるわたしの霊/あなたの口においたわたしの言葉は/あなたの口からも、あなたの子孫の口からも/あなたの子孫の子孫の口からも/今も、そしてとこしえに/離れることはない、と主は言われる。」(イザヤ59:20~21)

 

ここには神がアブラハム契約を守られるということが述べられているのです。神の救いの約束は、必ずこの歴史の中に実現されるのです。

今日は、イエス・キリストが私たちを罪から贖うために十字架で死に、葬られて3日目によみがえられたことを記念するイースターです。

キリストが初穂としてよみがえられたように、私たちもやがてよみがえりのいのちに生きることができることを覚えながら、主にあってともに歩み続けてまいりましょう。

 

祈り

 

天の父なる神様、生まれながらに罪を持って生まれ、あなたの恵みを知らずに生きてきた者ですが、あなたは私たちを創造し、育んでくださったのみならず、わたしの罪を贖い、まことのいのちを与えるためにあなたのひとり子をも与えてくださったことを、心より感謝いたします。私たちの最後の敵である死に打ち勝ってくださったことを感謝して、イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。