あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。

彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。(新改訳)

私が子供だったころには、離婚する人や堕胎する人はほとんどなかったように思います。日本は治安がいいと今でも言われることはありますが、私が子供の頃には考えられなかったような犯罪のニュースが、近年には流れてくるようになりました、「誰でもよかった」といって通りがかりの人に切りつけたり、中高生が覚せい剤に手を出すなど考えられないことでした。

 

しかし、今では日本は、思いもかけないような犯罪のニュースが流れてきたり、機能不全家族と思われるような家庭が増えて来ている。人と人との心のつながりも希薄になってきて、社会がどんどん悪くなって来ているように思われます。

 

ここには、神を離れた者たちの罪の連鎖が記されています。罪は罪を呼ぶのです。ミカ書には、「人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。」(ミカ6:8)と言われていますが、へりくだって神とともに歩もうとしない人は、自分が神のように振舞うことへと傾いていってしまいます。

 

このため善悪の規準も曖昧なままになり、罪を犯してもそれを自分の罪と感じる感覚も、人の痛みを感じる感覚も鈍感になってしまうのです。

私たちは、まず自分の心にある罪と戦わなければなりませんが、戦いはそれだけではありません。自分の罪を自覚し、神のもとに立ち返って悔い改めた者は、こんどは愛をもって、互いの徳を高めあうように、皆が成長するように、戦わなければならないのです。この戦いの中でも私たちはよく失敗し、愚かなこともしてしまいますが、それに気付いた時、私たちは真剣に罪を悔い改めて正しい道に戻るとき、神は恵みの御手を持って私たちを受け入れ、守り、いのちの道へと導いてくださいます。

 

祈り

 

天の父なる神様、あなたによって教えられなければ、私たちは自分自身のことも、私が今ここに生きている意味も、あなたの前に犯してきた罪の大きさも知らないで生きてきたものです。

そんな私たちに、あなたは私たち自身について教え、悟らせようとしておられます。罪が分からなければ救われる必要もわかりません。罪ある者を愛し、招いてくださるあなたのみ声を聞くものとならせてください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。