自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。ローマ1:22~25

彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。(新改訳)

私にいのちを与えてくださり、今日まで私を養ってきてくださったのに、その方には無関心で、感謝もせず、礼拝しようともしない。それどころか「不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物」に変えてしまっている罪ある人間の姿をここに表現しています。

 

私たちの周りを見るならば、あらゆるところにこうした現象を見ることができます。神社が生まれてくる過程には、例えば、戦いにおいて非業の死をとげた人を、たたりが怖いからといって勝った方の武将が神として祀るということがあります。祖先を敬うことは大切なことですが、死んだ人を神のようにしてあがめるというのは、まことの神を知らないからに他なりません。

 

偶像礼拝とは、神の御名を傷つけること、神からその栄光を盗もうとする試みといえます。彼らは、愚か者となって、「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替え」てしまいました(23節)。また25節でも、「造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えた」と言って、偶像礼拝の中心的な問題を扱っています。

 

偶像礼拝がなぜいけないのか。偶像礼拝の根本的な問題は何なのか。まずそれは「神の栄光を、滅ぶべき人間や動物に似た物に代えてしまった」という点にあります。木や石や金属などで造った動物や人間の像は、人格を持ち、生きて働かれる神を表わすことはできません。それは何の力もない偽りの神々に他なりません。また、偶像礼拝は偽りですから、人々の心を頼りにならない偽りへと導くのです。

 

偶像は、人によって「神の真理を偽りに替え」て造られたものです。造られたものは作ったもの以上には決してなりませんから、偶像は人以上のものには決してなりません。そして、偶像礼拝は創造主と被造物の区別を消すものです。創り主と造られた者の区別をなくしてしまうので、神の栄光を汚すものです(25節)。

 

祈り

 

天の父なる神様、今日もみことばを聞き、祈るひとときを与えられてありがとうございます。

至るところに偶像がある日本に生まれ育ったものとしては、これが当たり前のように思ってしまうこともありますが、みことばによって偶像を作ってしまい、偽りのものに心を向けてしまう罪を教えられます。

あなただけをわが主と仰ぎ、あなたの栄光のために歩むことができますように御霊によってお導きください。

イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。