12:3 そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。

 12:4 神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。

 12:5 安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。

 

イエス様は、ファリサイ派の人々から、「あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言われて、「すみません。これからしないようにさせます」とは言われませんでした。そうではなくて、聖書に基づいて、自分の弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで食べてもよいのだということを論証されるのです。

この時イエス様がファリサイ派の人々の非難に対する論証として先ず挙げられたのは、サムエル記上21章に記されているダビデの記事です。サムエル記上の21章1節以下には次のように記されています。

 ダビデは立ち去り、ヨナタンは町に戻った。ダビデは、ノブの祭司アヒメレクのところに行った。・・・それよりも、何か、パン五個でも手もとにありませんか。他に何かあるなら、いただけますか。」祭司はダビデに答えた。「手もとに普通のパンはありません。聖別されたパンならあります。従者が女を遠ざけているなら差し上げます。」ダビデは祭司に答えて言った。「いつものことですが、わたしが出陣するときには女を遠ざけています。従者たちは身を清めています。常の遠征でもそうですから、まして今日は、身を清めています。」普通のパンがなかったので、祭司は聖別されたパンをダビデに与えた。パンを供え替える日で、焼きたてのパンに替えて主の御前から取り下げた、供えのパンしかなかった。(サムエル記上21章1~7節)

 ここには「安息日」という言葉はありませんが、律法によるとパンを供え替える日は安息日でしたので、このダビデのお話は安息日のことであると考えられます(レビ24:8参照)。このようにダビデは、安息日に、自分と供の者たちの空腹を満たすために、ただ祭司のほかには食べてはならない供えのパンを食べたのです。

 祈り

天の父なる神様、私たちが生きていくために必要なあらゆることを備えて導いてくださる恵みを感謝いたします。安息日の教えにあるように、7日間のうち1日は仕事を休む生活が定着してきていますが、この1日を、自分のあり方を振り返り神の恵みを覚えて礼拝を捧げる日としていくことが出来ますように。

イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。