さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。ローマ3:19~20
さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。(新改訳)
これまで、ローマ人への手紙のはじめの章を見てきましたが、この手紙において、パウロは、すべての人が神の前に罪人であるというだけではなく、その存在の根底から罪にまみれているという人間の現実を指摘してきました。今日のみ言葉はそのまとめであるということもできます。
律法という言葉は、私たち日本人にはなじみのないものですが、神によってかみのかたちに創造された私たちにも、決して無関係なものではありません。聖書によって神の御心である律法を教えられる時、これがどんなに高い規準であるか、私たちには従い得ない者であるかということを教えられるのです。
この神の律法に照らして判断するならば、「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みなともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない」とパウロは宣告しています。
ですから、20節の最後のところで言われるように、「律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです」ということになるのです。
ここでのパウロの結論は、律法を行なうことができないのですから、律法への服従の行ないによっては誰一人神の御前に義と認められることはない、ということです。つまり、律法が与えられたのは、行ないによる義認をイスラエルに教えるためではありません。悔い改めて神の恵みを求めることによってのみ人は救われるということを、イスラエルに教えるためでした。
祈り
天の父なる神様、あなたが与えてくださった律法をその通りに実行することが出来た人は一人もいませんでした。いや、正確に言えば、あなたが私たちに遣わしてくださった神の御子イエス様を除いては一人もありませんでした。そのような私たちのために、行いによる救いではなく、あなたの恵みにより信仰による救いの道を拓いてくださったことを心より感謝いたします。
あなたの恵みのうちを歩むことができますように、私たちの歩みを導いてください。
イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。