14:21 律法にこう書いてあります。「『異国の言葉を語る人々によって、/異国の人々の唇で/わたしはこの民に語るが、/それでも、彼らはわたしに耳を傾けないだろう』/と主は言われる。」

 14:22 このように、異言は、信じる者のためではなく、信じていない者のためのしるしですが、預言は、信じていない者のためではなく、信じる者のためのしるしです。

 

今日の聖句は、イザヤ書28章11~12節からの引用です。ここには「確かに、主はどもる唇と異国の言葉で/この民に語られる。主が彼らに言っておかれたことはこうだ。「これこそが安息である。疲れた者に安息を与えよ。これこそ憩いの場だ」と。しかし、彼らは聞こうとはしなかった。」と言われています。

 

イスラエルの人々は、預言者たちの声に聴き従おうとはしませんでした。それで「『異国の言葉を語る人々によって、/異国の人々の唇で/わたしはこの民に語る」と言われているのです。ここでの異国はイスラエルを滅ぼそうとしている「アッシリア」のことです。

 

神様が、異国の言葉で語られるのは、ある意味ではイスラエルに対する神の裁きでもあるのです。意味が分からない言葉で語ることは、相手のための言葉にはなっていないということです。そのように、相手にとって意味が分からない異言を語るよりも、意味が分かる預言を語ることこそが人を生かすメッセージとなるのだと言っているのです。

 

祈り

 

天の父なる神様、異国の言葉で話されても分からない人がたくさんいます。異言で話すことも同じような面を持っていると言われています。同じ日本語であっても、相手の人に分かるように語ることが出来ますように。

イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。