被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。ローマ8:23~25
そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。(新改訳)
私たちも、すべての人が(その人が自覚しているかどうかに関わりなく)体の贖われることを待ち望んでいます。すでにキリストの御業によって、私たちが罪から贖われるための働きは成就していますが、完全に私たちの体が贖われるのはこの肉体が死んで復活する時にそれは完全な形で実現されることになります。
人はみな罪の中にありますから、神を信じている人も信じていない人も、心の中心においては、自分の(罪の)からだが贖われることを熱望しているのです。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ローマ7:24)のパウロの叫びは、すべての人の心の叫びであるといえます。
しかし、多くの場合、罪から贖われるために神のもとに立ち帰ろうとはしません。心の渇きを神以外の何かによって満たそうとするのです。それは偶像礼拝であったり、酒やタバコなどの嗜好品、ギャンブルなどに依存することによって満たそうとするのですが、そうしたものによって罪の体が贖われることは決してありません。
「見えるものに対する希望は希望ではありません。」とありますが、この世において目に見えるものに対する希望は希望とはいえないものです。それらは一時的な喜びや満足をもたらすに過ぎないものだからです。ヴィトンのハンドバックがほしいと思っていても、それを手に入れたらまた別のものが欲しくなってしまいます。新しくモデルチェンジをした自動車がほしいと思ってそれを手に入れても、それはまた日ごとに劣化していくことになります。「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(2コリント4:18)と言われているように見えるものは一時的であり、確かな希望とはならないのです。
祈り
天の父なる神様、すべての人が(罪の)からだが贖われることを願っていますが、その願いを心から受けとめて、神に救いを求める人はまことに少ないことを思います。そんな私たちのために、罪ある者を招いて救うために主イエスは来てくださいました。魂の救いを必要としているすべての人たちが、主の下に来てまことの癒しを与えられ、罪の力から解放されて希望に生きる人生に導かれますように。
イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。