こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。ローマ7:12~13

ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。(新改訳)

 

神が与えてくださった律法は、正しさを規定するものですから、これをよいものだという見方に対して異議を唱える人はいないでしょう。パウロがここで律法を良いものだといっているよいものという言葉には、祝福という意味も含まれています。アダムとエバによって律法とは、単なるテストということではなく、律法は、彼らに善と悪の本当の意味を教え、彼らが神の御旨にかなった支配をする者として整えられるために与えられたものです。

 

「律法は祝福である」とパウロは述べています。ですから、「戒めは祝福である」ということが強調される必要があります。神の命令自体が祝福であり、律法自体が祝福なのです。

 

創世記は3500年前の昔に書かれた書物であり、その書き方は現代とは異なっています。事の一部始終を細部に至るまで説明するような書き方にはなっていなません。現代の小説などを読むときには、全部がもう書かれてあるので、ただ読んで味わえばよいでしょう。しかし、昔の書物は非常に簡潔に書かれてあり、意味が深く、よく考え瞑想しなければわからないような書き方になっていることを忘れてはなりません。

 

現代と違って、古代には羊皮紙や粘土板などにも字が書かれたのですから、多くの文字を書くことが出来ませんでした。そのため聖書も簡潔にまとめられたのですが、それでもかなりの分量になるものが現在聖書として残されているのです。聖書を理解するためには、これを神の言葉として、私への言葉として受けとめること、それも今の私への言葉として受けとめること、聖書は聖書によって理解すること、文脈を探りつつ、字義通りに解釈すること、書かれた当時の時代背景やこれを聞いた人たちの考え方、モノの見方を理解しつつ理解していくことが大切です。

 

このようにして聖書を読んでいくときに、律法という神のみ言葉も、私たちが正しく生きるために神が与えてくださったものであり、私たちを祝福へと導くために与えてくださったものであることが分かります。現代という時代は、手軽に安楽な祝福を手に入れたいという時代のように思われます。

 

しかし、3分間お湯を注げば出来上がりというカップラーメンはありますが、真実の意味でインスタントな祝福というものはありません。主イエスは、「新しく生まれなければ神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:6)罪を捨てて、イエス・キリストにより頼むという恵みによって生きる人生に生きるものでありたいと思います。

 

祈り

 

天の父なる神様、あなたのみ言葉によって、私たちが何を信じてどのように生きたらよいのかをお示しくださり、さらに、行いによっては救いを得ることができない私たちを救うために、主イエスを信じることによって救われるという道を拓いてくださったことを感謝いたします。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。