わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。ローマ12:6~8
私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。(新改訳)
私たちはみな、神の恵みによってそれぞれに異なった賜物を与えられています。「異なった賜物」が与えられているということは、一人一人に与えられた賜物も働きも違うということです。昨日は、私たちは互いに器官のように他のために働き、キリストの体を建て上げていく者であることを教えられました。
異なる賜物を持つ私たちも、互いに仕え合い、愛し合いながら、頭であるキリストの御心に従って歩むキリストの体なる教会なのです。ここで言われている賜物を用いた働きとして、預言、教え、奉仕、勧め、施し、指導、慈善という働きが記されていますが、もちろんこれ以外の働きを考えることもできるでしょう。
エペソ人への手紙2章20節には、「教会の土台は使徒と預言者である」と言われています。教会は使徒と預言者の上に建てられているのです。教会の土台を据える時代は預言者と使徒たちによって導かれて聖書は完結するに至りました。それによって狭い意味での預言者も使徒の時代は終わったといえます。今日の時代は、その土台の上に建物を築く時代なのです。
信仰は聞くことからはじまりますが、聞くことによって神とその恵みを知り、その理解を深めて成長し、やがては教えるようになることが期待されています。へブライ5:12には、「実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。」(ヘブライ5:12)と言われています。
また、エフェソ4章には、「キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
」(エフェソ4:11~13)と言われています、預言者や使徒や牧師の働きは、「聖徒たち」を整えて奉仕の働きをさせ、キリストの体を建て上げ、ついにはイエス・キリストご自身に似たものとなっていくためのものです。
祈り
天の父なる神様、あなたは罪の中にある私たちのうちに働いて、みことばを与え、聖霊によってお導き下さり、神を知り、イエス・キリストの救いの恵みの中へと加えてくださることを感謝いたします。預言者、使徒、教師、牧師を建ててくださり、私たちを整えて奉仕をすることが出来るようにと整えてくださり、キリストの体を建て上げてくださる御業を感謝いたします。私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達することが出来るようにお導きください。
イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。