あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。ローマ12:14

あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。(新改訳)

 

「自分を迫害するものを祝福する」こうした思いや行為は、私たちの生まれながらの心からは出てこないものです。このみことばを聞いて思い起こされるのは、主イエスが十字架につけられたときに言われた言葉です。主イエスは自分を十字架につけあざける者を前にして言われました。

 

「〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕」(ルカ23:34)旧約聖書にあるイスラエルの歴史を見るならば、神が、実に忍耐強く彼らを導き、不信仰なイスラエルに対してもアブラハムに約束された契約を守り、人類を罪と死の中から救い出すために神のひとり子をも与えてくださったことが分かります。

 

にもかかわらず、当時のユダヤ人たちは、主イエスを受け入れることなく、恩を仇で返すような仕打ちをして、何の罪もない主イエスを十字架につけてしまいました。イエス様のお姿は、そのような人々に仕え、そのような人々を愛し、そのような人々の重荷をご自身が引き受けて、自ら十字架に向けて歩んでくださる姿でした。

 

マタイの福音書5章において主イエスは言われました。「わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタイ5:44~45)

 

祈り

 

天の父なる神様、「自分を迫害するものを祝福する」ということは私たちには何と難しいことでしょうか。それは平和を作り出すことの困難さにもつながっています。私たちは、平和を願いながら、なかなかそれを実現することが出来ない歴史を背負っていますが、敵をも愛する愛によってこそ平和が実現することを思います。「自分を迫害するものを祝福する」ことが出来るように、わたしの心を新しく変えてください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。