モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。ローマ10:6~10

モーセは、律法による義を行なう人は、その義によって生きる、と書いています。しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろすことです。また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(新改訳)

 

「掟を守る人は掟によって生きる」とあるのは、レビ記18章5節からの引用です。「わたしの掟と法とを守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる。わたしは主である。」(レビ記18:5)このところだけを見ると、人は律法を行なうことによって命を得ることができるのだと読んでしまうかもしれませんが、レビ記の文脈を見れば、ここも信仰による義を教えていることが分かります。

 

主イエスは、ファリサイ人たちから、「律法の中でどれが一番重要なのですか」という質問を受けたとき、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」という申命記6章の言葉とレビ記19章18節を引用して、「自分を愛するように自分の隣人を愛しなさい」と教えられました。

 

これは律法を行う必要がないということではありません。むしろ、主イエスは律法を行なうことを願っておられますが、律法を行なうことによって義と認められるという道は人間には不可能であるということをレビ記も申命記も教えています。イスラエルの人たちは、それは罪ある人間には不可能であるということをその歴史において実証しています。

 

「だれが天に上るだろうか」「だれが地の奥底に下るだろうか」といってはならないと主イエスは言われていますが、これは人はその行いによって義と認められるのではなく、ただキリストのあがないによってのみ義と認められることが出来るので、その人が救われるか滅びるかということをその人の行いによって判断してはならないということです。

 

パウロはここで、律法をどのように読めばよいのかということを教えています。すなわち、旧約聖書に記されている律法は、それを成就してくださったイエス・キリストを通して読むべきものであり、事実、律法はイエス・キリストによる罪の贖いによって救われることを教え、神の救いの恵みを信じ、受け入れ、神とともに生きることを私たちに教えているのです。

 

神が私たちに与えてくださった救い主はただお一人です。この方を私の救い主として信じて受け入れる者が、その信仰によって救われることが出来るのです。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」

 

祈り

 

天の父なる神様、私たちは自分の努力や行いによっては、神の律法を完全に守り行うことはできません。しかし、行いによっては義と認められることがない私たちのために、あなたは神の御子を救い主として私たちに与えてくださいました。信仰により恵みによって救われたことを心より感謝いたします。

あなたの恵みのうちに、あなたの愛にお応えして生きることができますように御霊によってお導きください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。