かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。ローマ15:4~6

昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。(新改訳)

 

「昔書かれたもの」とは、旧約聖書のことを指していると思われますが、当時のユダヤ人たちは旧約聖書を正典として重んじていました。しかし、この聖書が教えていることの重要なことを彼らは見失っていました。

 

そのようなユダヤ人たちに主イエスは、次のように言われました。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」(ヨハネ5:39)聖書は「わたしについて証し」するものだと言われたのです。また、ルカの福音書においても、「イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」(ルカの福音書24:44)ここでも「わたしについて」と言われています。

 

旧約聖書は、イエス・キリストについて証しています。なぜなら、イエス・キリストこそ、神が私たちに与えてくださった、旧約聖書が指し示している唯一のメシア、救い主だからです。この方は私たちの罪のために死んで下さり、よみがえられ、聖霊において私たちとともに働いてくださるお方です。

 

「わたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。」とありますが、これは聖書に書かれているように、神がこの世界に働いておられて、私たちを守り、養い、イエス・キリストによって実現された救いの恵みを信じて生きることができるように、お導き下さっているからに他なりません。

 

「忍耐と慰めを学んで」とありますが、旧約時代の神の民も、新約時代のクリスチャンも、様々な試練や困難を経験してきたことが分かります。ヘブライ12章には、「「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、/力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。」あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。」(ヘブライ12:5~8)と言われています。

 

神はその子供に対して放任主義ではありません。食べ物や住む家などを与えるだけでもありません。真実に愛することについて、父なる神を知ることについて、聖書の言葉に聞き従うことについて、その信仰を確かなものとすることについて、神はその愛する子供を訓練なさいます。そして慰めと希望を心に抱かせてくださるのです。

 

祈り

 

天の父なる神様、あなたは神に背き続けてきた私たちをあなたの下に、本来私たちが帰るべき場所に導き返してくださり、神の子供としてくださいました。そしてあなたの子供としてふさわしいものとなるように訓練してくださいます。キリストのように愛に生きることは到底出来ない私たちですが、あなたが私たちを少しずつでもキリストに似た者となれるようにお導きください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。