あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。ローマ2:4~5

それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。(新改訳)

世の中には、裁判所があり、裁判官がいろいろな問題について裁きをしています。しかし、裁判所の裁きが必ずしも正しい裁きになっているかといえば、そうは言えないことに人々は気がついています。誤って判断をした裁判に対して再審となった場合は、冤罪事件になるようです。

 

こうした有様を見るとき、人間が他の人間を裁くことが出来るのか。本来ならば神以外に、すなわち何の罪もない者だけが人を裁きうるのではないかと思わされます。しかし、裁判所でなくても、私たちは様々な場面で人を裁くことがあるのではないでしょうか。人と人とを比べて「差別」する思いは、そうしたところから出てくるのではないでしょうか。

 

「神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。」という言葉は、神が罪ある人間が、自らの罪を認めて神のもとに立ち返ることを願っておられることを教えています。日本では、「神」といえば恐ろしいもの、祟りを与えるものというイメージが強いのですが、聖書が教える神は憐れみ深い神です。

 

 

 

祈り

 

天の父なる神様、今日もあなたのみことばをお与えくださり、祈るひとときを与えてくださり、ありがとうございます。あなたは私のような罪を重ねる者にも御手を持ってお守りくださり、あなたのもとにつなぎとめてくださっていることを、心より感謝いたします。

新しい年も、あなたがともにいてくださることを覚えて、この地であなたの御心を行なうことができますように。あなたが私を愛してくださったように、自分を愛し、隣人を愛することが出来ますようにお導きください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。