だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。ローマ11:22~24

見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。(新改訳)

 

「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。」と言われています。この世に生きている(生かされている)人の多くが、神の慈しみも、神の厳しさも自覚しないまま暮らしているように思われます。

 

「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(1テモテ2:4)ユダヤ人であれ、異邦人であれ、そのような区別なしに、神はすべての人が救われることを願っておられます。しかし、神がこれまで私たちのために、そして私たちの救いのためにしてくださったことを人々はどれだけ思い起こしていることでしょうか。

 

私たちは、「神の慈しみ」をどれほど意識して暮らしているでしょうか。この世界はいろいろなものがお金によってやり取りをするような社会になっていますが、神は私たちが生きていくために無償であらゆるものを与えてくださっています。

 

また、「神の厳しさ」をどれほど意識して暮らしているでしょうか。日本においても、少し前までは「神の裁きがある」「神が見ておられるから悪いことをしてはならない」という意識を持って多くの人々は暮らしていました。この場合の「神」は漠然としてもののようでしたが、神を畏れて生きるということを日本人は長い間心に覚えてきたのです。しかし、そうした思いが現代においてはかなり薄れつつあるように思われます。

 

神を侮っているようにも思われます。聖書に記されている歴史は、神がこの世界の主権者であり、私たちに「祝福と呪い」を置かれる神であることを教えています。申命記には、「見よ、わたしは今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く。あなたたちは、今日、わたしが命じるあなたたちの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、もし、あなたたちの神、主の戒めに聞き従わず、今日、わたしが命じる道をそれて、あなたたちとは無縁であった他の神々に従うならば、呪いを受ける。」(申命記11:26~28)と言われています。

 

ルカによる福音書12章5節には、「恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。」と言われています。人を恐れるのではなく、神を恐れることを聖書は教えています。

 

ペルシャの王ダリオスによって次のように述べられました。「わたしは以下のとおりに定める。この王国全域において、すべての民はダニエルの神を恐れかしこまなければならない。この神は生ける神、世々にいまし/その主権は滅びることなく、その支配は永遠。この神は救い主、助け主。天にも地にも、不思議な御業を行い/ダニエルを獅子の力から救われた。」(ダニエル書6:27~28)

 

祈り

 

天の父なる神様、あなたの慈しみは如何に大きいことでしょう。しかし今日、多くの人々が神を神として生きるという思いを離れて、自分を中心にすえて生きようとしているために、神などには関心を持たないか、あるいは自分のために神を利用しようとしているように思われます。

「罪」が人類に入ってきたのは、人が神のようになろうとする思いからであったことを思うとき、同様の罪深さが自分自身のうちにもあることを思います。へりくだって神とともに歩むことが出来ますようにお導きください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。