ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。

ローマ14:16~19

ですから、あなたがたが良いとしている事がらによって、そしられないようにしなさい。なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。(新改訳)

 

私たちは、誰もが喜びを求めていると思います。昨日はテニスの錦織選手がモンテカルロマスターズにおいて準優勝となりました。怪我からの復帰ということで喜びもひとしおであると思います。あのように世界的にスポーツなどで活躍する人は全体から見れば数少ない人でしょうが、皆様もいろいろな機会に喜びを感じることがあったことでしょう。学校のテストでよい成績をとったとき、両親や先生、友人などからほめられたとき、合格通知の知らせを受け取った時、あることを達成した時など、様々な喜びの場面があったと思いますが、それらはいずれも一時的な喜びだったと思います。

 

しかし、聖書が約束している喜びは、一時的なものではありません。なぜなら、それは、「聖霊によって与えられる義と平和と喜び」だからです。それは、神によって与えられる義と平和を伴う喜びです。これらは神によってしか与えられないものです。ローマ人への手紙3章22節には、「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。」と言われています。

 

神が私たちを、イエス・キリストを信じる信仰によって「義」と認めてくださるのです。神を知り、神の前に自分自身が罪ある者だと自覚している人は、神に「義」と認められることがなければ、決して真実の喜びを持つことができない事を知っています。どのような喜びをこの世において経験することが出来た人でも、神に「義」と認めていただくことがなければ、それは空しい人生であったということになります。

 

「平和」と言われているのは、何よりも神との平和です。罪ある者は神との平和を持つことが出来ませんが、イエス・キリストの贖いのゆえに、その罪を赦されて、神の義をいただくことが出来るのです。このようにみてくると、神の義をいただくことと、神の平和をいただくことは一つのことであるということが分かります。このことこそが私たちがこの人生において最も優先的に解決し目指すべきあり方なのですが、それは人の努力で達成できることではありません。すでにイエス・キリストが、私たちが救われるために必要なあらゆることをしてくださいましたから、私たちは悔い改めと信仰によって、この救いの恵みを、感謝をもって受け取ればよいのです。

 

祈り

 

天の父なる神様、あなたは私たちにまことの喜びを与えてくださいます。イエス・キリストの贖いのみ業によって、そして聖霊によって罪の悔い改めと信仰を与えられ、平和が与えられ、義と認められている恵みを心より感謝いたします。

あなたの恵みのうちに生涯歩むことができますようにお守りくださり、お導きください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。