従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。ローマ14:13~15

ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。(新改訳)

 

「もう互いに裁き合わないようにしよう」と言われています。この表現は日本語の表現を用いるなら、さらに強い言葉で「もう、裁き合うのはやめなさい」と言ったほうが原文に近いように思われます。裁き合うよりもむしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。と言われています。

 

「裁く」ということは、後で振り返って、あの時はあの人を裁いていたなあと思い起こすこともありますが、自分でも気がつかずに人を裁いていたということもあるのではないでしょうか。人を裁いたり、分け隔てしたり、見下したり、差別したりするというのは、本人が気がつかないうちにそうしているという事もよくあるものです。

 

「あなたは人をさばいてはいないか」という自己吟味をするようにと聖書は教えているのです。加害者と被害者とでは、圧倒的に被害者のほうが、その事柄によって心の痛みを覚え、覚え続けているのですが、加害者のほうは、相手の感情には無頓着で、自分のしたことを忘れてしまいやすいのです。

 

人が「つまずき」となるものは、人それぞれによって違う面もありますが、大方においては同じではないかと思います。違う面ということでいえば、旧約の時代のユダヤ人たちは、汚れた動物の肉を食べないということがありました。あるいは今の私たちで言えば、食物のアレルギーで悩んでいる人がいます。それを知りながら、あえてそうした食物を出すようなことは、つまずきを与えることになるでしょう。

 

大方は同じだと思われるということでいえば、「悪口」や「相手を罵倒するような言い方」「見下した言葉遣い」「暴力を振るうこと」などは、誰にとっても不快なものであり、そういう言葉づかいをすること、暴力を振るうことはは、つまずきを置く事になるでしょう。あなたがクリスチャンであってそのようなことをするならば、その人は、あなた自身に対して悪い感情を抱くのみならず、あなたが信じている主イエスに対しても悪い感情を抱くことになってしまいます。そのようなつまずきをおくことによって、相手を主イエスから遠ざけるようなことになってはいけないと教えられているのです。

 

祈り

 

天の父なる神様、私たちが罪の中にあることの大きな問題は、罪の影響を自らがこうむるのみならず、他の人々に波及させてしまうことにあります。悪口は、それを言われた人の心に悪い種を植え付けていきます。しかし、人を救いに導くために、神の栄光のために生きることができますようにお導きください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。