ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。ローマ7:4~6

私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。

かっての私たち、イエス・キリストを信じる前の私たちは死に至る実を結んでいたと言われています。死に至るようなものは実を結ぶといえないようにも思われますが、聖なる神、正義を守られる神の前に自分自身の姿を省みるとき、罪や肉の欲望に縛られているなあということを思い知らされます。

 

聖書の中の神の裁きは、100パーセント正しくて、100パーセント義の裁きです。主イエス・キリストが私たちのために十字架上で死んで、よみがえってくださった、そのキリストを信じる信仰によってのみ私たちは救われるのです。キリストを信じる者は、キリストとともに死んで、キリストとともによみがえったのです。それで、律法の要求の下で「これを行なえば救われる」というような自力で自分の救いを達成しなければならないというところから救われたのです。

 

救いは100パーセント神から賜物として与えられたことを知っているので、私たちはその愛に対して応答し、感謝と愛を持って神に従って歩むようになるのです。私たちの人生の目的は、神のために実を結ぶ者になるということです。聖書が語る「死」とは、神を離れること、神との断絶状態に置かれてしまうことです。これは真実の意味で実を結ぶ人生ではありません。

 

神のために実を結ぶ人生についてガラテヤ人への手紙では次のように言われています。肉に従う人生と神の聖霊に従う人生が対比されています。

「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」(ガラテヤ5:19~23)

 

私たちには、死に至る実を結ぶのか、それともイエス・キリストの贖いにより、聖霊の結ぶ命に至る実を結ぶのかという二つの道があり、神は後者の道を選ぶようにと私たちに求めておられるのです。

 

祈り

 

天の父なる神様、律法の下にあり、死に至る人生を送っていたものが、今や、恵みの下にあり、死の向こうにある命に向かう人生へと変えられたことを心から感謝いたします。

ただひとりの救い主のゆえに信仰によって死から命への道が拓かれていることを感謝して、イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。