不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。ローマ1:18

というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。(新改訳)

 

ローマ人への手紙は、罪人がどのようにして神から義を与えられるのか、ということを説明しています。それは、信仰のみによって与えられるものです。

17節には、ハバクク所からの引用によって、「義人は信仰によって救われる」と言われていましたが、続く18節以下には、「なぜなら」という言葉があり、18節以下は17節までに言われていたことの説明が続いていくことがわかります。

 

ここでは、「人間のあらゆる不信心と不義」に対して神の怒りが現わされると言われています。「不信心(信仰)」というのは、神ご自身に対する人間の心の問題であり、それが不義にもつながっていきます。「不義」とは、神と人に対して正しいことを行なわないこと、してはならないことをしてしまうことといえます。「不信心(信仰)」とは、(すでに神によって生を与えられ生かされているにもかかわらず)神なしで暮らしたいということであり、神なしで生活できると思ってしまうことにあります。

 

ガラテヤ信徒への手紙には、神が与えてくださる賜物が記されています。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」(5:22~23)こうしたものは神が所有しておられて、いのちをも神が与えてくださるものですが、神なしにこうしたものを得たいと、人々は考えるのです。しかし、人は皆、神とともに生きる存在として神のかたちに似せて造られましたから、神なしにそうしたものを得ることはできないのです。

 

人は誰でも、真実の愛、まことの喜びを求めますが、それを得るためには神との関係を正常なものにする必要があるのです。この世界に様々な罪や不正が蔓延しているのも、根本的には、人々がまことの神から離れてしまっていることに他なりません。

ここには、「不信心と不正」に対して神の怒りが現わされると言われています。「不信心と不正」に対して裁きを下す義なる神がおられるということです。私たちの生活の中のすべての問題は、そういう意味で神の御怒りから来ると考えることもできます。しかし、主イエス・キリストを信じることによって私たちは神の怒りから救われたのです。キリストを信じる私たちにとって、神の怒りには憎しみや永遠の裁きの意味はありません。

 

祈り

 

天の父なる神様、この世界に罪が入って以来、私たちは、「正義」ということについて鈍感になっているように思われます。しかし、義であり聖である神との出会いによって、自分自身のうちにどうしようもない罪があることを覚えずにはいられません。罪ある者を招き、救ってくださるあなたの恵みを感謝いたします。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。