彼らの目には神への畏れがない。ローマ3:18

「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」(新改訳)

 

これは、詩編36編1節後半の言葉の、70人訳聖書からの引用です。罪の根源はつまるところ関係の問題です。神との関係を確かなものとするために、聖書では「神を恐れる」こと、「神を信じる」ことが語られていますが、神を恐れることは神を畏れる(畏れ敬うの意味)と神を信じることは同じことと考えることも出来ます。

 

しかし、罪を犯して以来、神との関係が損なわれているために神を恐れるという事態が起こりました。アダムとエバが罪を犯した直後、人間は神を恐れて、神から逃げ出そう、隠れようとしたことが分かります。この場合の恐れは恐怖であり、神がどういう方であるかわからない、神によって愛され、生かされていても神を求めようとはしない人間の姿が表されています。

 

ルカの福音書12章において主イエスは、「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。」(ルカ12:4~5)と言われました。

 

「神を恐れる」というと、罪を犯したアダムと同じように、多くの人は恐れ=恐怖というイメージしかないために、否定的にしか受けとめることができません。しかし、聖書においては、神を恐れる=神を畏れることであり、畏れ敬うという意味があります。神を恐れる心とは、子供が父親に対して持つ心のようなものです。特に幼い子供の観点から見れば、まず父母は身体も大きく、まったく信頼して、委ねていく存在なのです。

 

そのような幼子のような心を持って神との関係を築いていくことが求められているのです。幼い時にはお父さんとお母さんを怖いと思うものです。そして、その怖さは信頼関係でもあるのです。天におられる私たちの父である神は、絶対的な正義と知恵をもって私たちを愛し育んでおられる御方です。そのご臨在は恐ろしいものでもあります。この御方を正しく理解するなら恐れは畏れと信頼につながってくるのです。

 

祈り

 

天の父なる神様、今日もあなたの御言葉を聞き、祈るひとときを与えられて感謝いたします。私たちは、様々な恐れや不安を持ちながら生きるものですが、神だけを恐れ(畏れ)るようになるとき、それ以外の恐れから解放されていきます。あなたとの確かな信頼関係を持ち続けることが出来ますようにお導きください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。