わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。フィリピ3:5~7
パウロは生粋のユダヤ人として、しかもその中でも律法に熱心なファリサイ人として、当時のユダヤ人たちの間にあっても一目置かれる存在でした。「律法の義については非のうちどころのない者でした。」と述べているように、ユダヤ人の指導者たちが教えているような律法に関する教えは、完璧に守っていると言えるほどに、自分自身の生活を律してきたのです。
彼は熱心に神に従ってきたと思ってきましたが、彼もまた他のファリサイ人たちと同じように、聖書そのものというよりはユダヤのラビたちの教えを踏襲しているに過ぎませんでした。彼らの教えや行動は神の御心からはかけ離れたものとなっていたのです。そのために、キリストの教えを異端だと考え、キリストの弟子たちをも迫害するものとなっていたのです。「熱心さの点では教会の迫害者」と言われているとおりです。
しかし、イエス・キリストが彼に出会ってくださり、自分自身のこれまでの歩みが間違っていたことを教えられ、悔い改めて神の御心に生きるものに変えられていったのです。
祈り
天の父なる神様、パウロに出会ってくださり、彼の心を新しくしてくださったように、私たちにも出会ってくださり、あなたと共に生きる者としてくださったことを感謝いたします。さらに、あなたの御心に生きるものとならせてください。
イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。