こう書いてあります。「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、/すべての舌が神をほめたたえる』と。」それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。ローマ14:11~12

次のように書かれているからです。「主は言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、すべての舌は、神をほめたたえる。」こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。(新改訳)

 

「主は言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、すべての舌は、神をほめたたえる。」ここには、「私は生きている」という神ご自身の主張がありますが、神は命の源なるお方です。いのちあるすべてのものは、この方によって命を与えられ、生かされているのです。

 

神が私たちを生かしてくださるのでなければ、私たちは一瞬たりとも生きていくことはできません。これに続いていわれていることは、「それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。」という事実です。私たちは、神によって、神の前に生かされていることを忘れてはなりません。

 

しかし、実際に私たちはこの事実を忘れて、自分勝手に、自分の好きなように生活していることが多いのではないでしょうか。士師記17章6節には、「そのころイスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた。」と言われています。「王がなく」というところは、「自分の主を自覚することなく」と言い換えてみるならば、今もこれと同じ状態ではないかと思われるのではないでしょうか。

 

しかし、私たちが自覚しようがしまいが、神は愛をもって、今日も私たちを生かし、守り、支えていてくださいます。だから私たちには、他の人をさばいたり、弱い人を侮ったりする権利はないのです。神の前における私たちの立場をよくわきまえる必要があるのです。ですから、このようにいわれています。「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。」(ルカ6:37)

 

祈り

 

天の父なる神様、あなたの深い愛によって、今日も私たちがここに生かされ、支えられてあることを覚えて感謝いたします。あなたとともに生きる存在として私たちは造られましたが、神などいないかのように振舞ってしまうことをお許しください。あなたの子供として、あなたの弟子として、主であるあなたの前に生きるものとして歩ませてください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。