彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。だからまた、それが彼の義と認められたわけです。しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。ローマ4:20~25
彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。しかし、「彼の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。(新改訳)
アブラハムは、神の前に完全に正しい者ではありませんでした。失敗をしたこともありましたが、自分の行いによってではなく神を信じる信仰によって義と認められました。
今日のみ言葉には、アブラハムが信仰によって義と認められたのは彼だけのことではなく、私たちも信仰によって義と認められるということが記されています。
アブラハムは直接神のみことばを聞きました。主イエスの弟子たちは、直接キリストからみ言葉を聞き、その働きを目撃することが出来ました。聖書が完結した今の私たちには神は聖書を通して私たちに語りかけていてくださいます。
聖書の歴史は、「にもかかわらず」の歴史だといってもよいでしょう。罪を犯して堕落して以来、人々はみな神を離れ、自分が神のようになって自己中心の歩みをしているように思われます。にもかかわらず、神は私たち人類を愛し、救いの計画を立て、恵みの契約を結び、その約束に従って、そのひとり子イエス・キリストによって私たちの罪を贖うという恵みを現わしてくださっているのです。
この世界を造られた神は、摂理の神として、この世界に働き、神の御心を今も実現しておられます。私たちの内にも働いておられるからこそ、今日もこのようにして聖書のみことばを聞き、祈るひと時が与えられています。
祈り
天地を創造し、これを統べ治めておられる主なる神様、あなたはアブラハムに約束された信仰により、恵みによって救われるという契約の民として、私たちにも同じ救いに与るものとしてくださっていることを覚えて感謝いたします。
神を信頼して生きることの喜びを持って、神と人とに仕えるものとならせてください。
イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。