現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。ローマ8:18~19
今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。(新改訳)
人間の御利益を目的とするような宗教には、苦しみや試練というものは、否定的に考えられることが多いことでしょう。しかし、キリスト教においては、苦しみもまた私たちの人生にとって意味のあることだと教えています。そればかりか、預言者たちも、使徒たちも、またイエス・キリストご自身も、神に従うというあゆみをしたためにさまざまな苦しみを経験した人たちであることが分かります。
2テモテには、「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。」(2テモテ4:3~5)と言われています。かって偽預言者といわれた人たち、今では御用学者と言われるような人たちは、権力者たちにおもねり、人々の口当たりのよいことだけを語る面がありますが、真理のみ言葉に立ち続けるように勧められています。
「将来わたしたちに現されるはずの栄光」と言われていますが、「将来の栄光」とは、「永遠のいのち」のことです。御霊が私たちのうちに住んでおられるので、私たちは、死んでも死ぬことはありません。主イエスは、ヨハネの福音書11章25節で、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」と約束しておられます。この約束は、肉体の死の話ではありません。肉体の死はいつか迎えることがあるでしょうが、本当の意味での「死」をクリスチャンは経験しないということです。キリストを信じる者には永遠のいのちが与えられているのです。
祈り
天の父なる神様、私たちが持っている根本的な問題をすでに解決してくださり、永遠のいのちという揺らぐことのない、失望に終わることもない確かな希望を与えてくださることを心から感謝いたします。
かっての信仰者たちが神に従ったために苦しみを経験したように私たちも試練を経験することがありますが、希望を持って、聖霊の導きを与えられ、支えられて日々を歩むことが出来ますようにお導きください。
イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。