信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。フィリピ2章17節

たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。(新改訳)

 

主イエスは、私たちを罪と死の中から救い出すために、十字架でご自身をいけにえとしてささげてくださいましたが、パウロも、キリストに倣うように、自分自身の血が流されるようなことになっても、わたしは喜ぶと言いました。

あなたは、他人の信仰の供え物とともに、自分のいのちの血を注ぎの供え物として注いでもかまわないと思うでしょうか。それとも、そんなことはとんでもないことだ、わたしには出来ないと考えているでしょうか。

 

主イエスは、わたしに従いたいと思うものは、自分の十字架を負ってわたしに従ってきなさいと言われました。そして、パウロのみならず、キリストの弟子たちはみな殉教の死を遂げていったと言われています。イエス・キリストに従うものとして立てられている一人ひとりは、どのようなものであるかは分かりませんが、自分の十字架を負って従うという何らかの事柄や課題を与えられていくものです。

 

パウロ自身、キリストに従うということのために、様々な災難や迫害を経験しておりました。キリストは、あの弟子たちのように、私たちも、自分自身を神にささげることを期待しておられます。そして、神に用いられる器として、また子供として、より成熟した者となるように訓練なさいます。神があなたに、「私は、貧しさの中にいる道も知っている」ということを教えようとしておられるかもしれませんし、より真実な愛を知ることが出来るように、ある方との出会いを与えておられるかもしれません。

 

クリスチャンの歩みは、キリストに倣って、キリストに似た者とされていくことですから、主が愛されたように、主が仕えて下さったように、私たちもそのように愛する者へ、仕える者へと成長させていただきたいと思います。

 

祈り

 

天の父なる神様、あなたが愛してくださったように愛することは、あなたの働きがなければ到底不可能なことです。欠け多き罪人ですが、あなたが導かれるままに、自分自身をあなたのために、そして他者のためにささげることができるような信仰にお導きください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。