わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。
ローマ1:14~16
私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。私は福音を恥とは思いません。 (新改訳)
この1章14節以下の言葉は、「負債と恥」という語で表すことができます。
このどちらの言葉も、現代社会の状況を表す言葉といえます。現代は、負債のために国々は破綻し、負債のない国は存在しません。今日では、日本の国の負債は、1000兆円になろうとしていると言われています。これは国民が負債を負っているわけではなく、国家の(劣悪な)政策によって負債が膨らみ、国民がその付けを払わなければならないような状況となっています。
個々人はその指導者たちに倣い、負債は国にとっても、企業にとっても個人にとっても大きな社会問題となっています。
「負債」がはびこっているのに、「恥」は消えつつあります。50年前の普通の日本人なら誰でも深く恥じ入るような事柄が、今日では日常の当たり前の現実として受け入れられるようになっています。日本は恥の文化であると言われていますが、「恥」という意識自体も、今日の日本では弱くなって来ているように思われます。日本では、神や仏の意識はそれほど強くはありません。強く意識するのは世間の目です。
世間(周囲の人)からどう見られるか、という意識で過ごしていますから、人に見られなければ大丈夫だということになってしまいます。学校や会社、国家や警察においても、その内部で問題が起こっても、隠して外に出そうとしないような体質があります。しかし、すべてをご存知である神がおられることを意識するなら、その対応は変わってくるのではないでしょうか。
ヨハネ5:44において、主イエスは、ファリサイ人に対して次のように言われました「互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。」ファリサイ人たちは、内輪の人々からの賞賛を得ることを大切にしていたのですが、人からではなく、神からの栄誉を受けることこそ大切なことだと主イエスは言われたのです。クリスチャンは、その裁きの日に、神から与えられる栄誉を心から求めて今を生きるのです。
祈り
天の父なる神様、今日もあなたのみことばを聞き、祈るひとときを与えられて感謝いたします。
「負債」とは返済すべきものですが、パウロは自分が神との関係において返すべき負債を負っていると言いました。それは、新共同訳聖書では、果たすべき責任と訳されていますが、彼は福音を伝えることこそ、神の前に果たすべき責任であると考えていました。
そのような熱い思いをもって多くの人たちが福音を伝えてくださり、私にも与えられ、神の恵みのうちに生きるものとされていることを感謝いたします。
いつもあなたがともにおられることを覚えて、あなたの御心のうちに生きるものとならせてください。イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。