43:6 「なぜお前たちは、その人にもう一人弟がいるなどと言って、わたしを苦しめるようなことをしたのか」とイスラエルが言うと、

43:7 彼らは答えた。「あの人が、我々のことや家族のことについて、『お前たちの父親は、まだ生きているのか』とか、『お前たちには、まだほかに弟がいるのか』などと、しきりに尋ねるものですから、尋ねられるままに答えただけです。まさか、『弟を連れて来い』などと言われようとは思いも寄りませんでしたから。」

43:8 ユダは、父イスラエルに言った。「あの子をぜひわたしと一緒に行かせてください。それなら、すぐにでも行って参ります。そうすれば、我々も、あなたも、子供たちも死なずに生き延びることができます。

43:9 あの子のことはわたしが保障します。その責任をわたしに負わせてください。もしも、あの子をお父さんのもとに連れ帰らず、無事な姿をお目にかけられないようなことにでもなれば、わたしがあなたに対して生涯その罪を負い続けます。

43:10 こんなにためらっていなければ、今ごろはもう二度も行って来たはずです。」

 

今日の聖句において、注目されるみ言葉は、ユダが次のように述べていることです。「あの子のことはわたしが保障します。その責任をわたしに負わせてください。もしも、あの子をお父さんのもとに連れ帰らず、無事な姿をお目にかけられないようなことにでもなれば、わたしがあなたに対して生涯その罪を負い続けます。」

 

これは、父なる神に対して、み子キリストが私たちのためにとりなしておられる祈りの言葉でもあるのではないでしょうか。実際には、罪の責任は罪を犯した本人がとらなければならないものです。しかし、日々罪を重ねている私たちのために、主イエスは、このユダのように、「この人のことについては、わたしが保証します。わたしがあなたに対して生涯その罪を負い続けます。」と言ってくださるのです。

 

旧約聖書は、わたしのことを証しするものだと主イエスは言われましたが、ユダはこの後の方でも、自分が犠牲になることを述べています。主イエスによる神の救いのみこころは、このようにして歴史の中に実現していくのです。

 

祈り

 

天の父なる神様、ユダは家族のためにとりなし、自分がそのすべてを保証し、責任をとることを申し述べて、エジプトに行くことになりましたが、イエス・キリストの上に罪の責任を負わせて、私たちの罪を贖ってくださる恵みを感謝いたします。あなたの愛を多くの人々が知ることが出来ますように。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。