兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。ローマ10:1~4

兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。(新改訳)

 

イスラエルの人たちは、熱心ではありましたが、「この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。」と言われています。神の義を知らず、自分の義を求めようとしたというのは、彼らが神を信じて救いを得ようとしたのではなく、自分の行いによって義を獲得しようとしたということです。

 

すでに見てきたローマ書4章の始めのところにも「わたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。」(ローマ4:1~3)ここでも行いによってではなく信仰によって義と認められることが言われています。私たちが救われるのは、神の恵みにより、信仰によるというのが福音であり、これが聖書を一貫して教えられていることといえます。

 

しかし、モーセの律法が行ないによる義を教えているかのように考える人は今日でもたくさんいるように思われます。そして、モーセの律法と福音について考えるとき、「モーセの律法は行ないによる義で、福音は信仰による義である」と考える人が今日も少なくありません。

 

今日の箇所においてパウロは、イスラエルの人たちが、「本当は信仰によって得ることを教えているのに、それを行ないによって得られるかのように求めた」そのように正しい知識に基づくあり方ではなかったのでそれを得ることができなかったといっているのです。

 

律法がその目標として指し示しているものは、神による救いであり、私たちを罪と死の中から救い出すために来てくださった救い主イエス・キリストに他なりません。「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。」と言われている通りです。

 

祈り

 

天の父なる神様、あなたが遣わしお導きくださった数多くの神の民や預言者たちの働きを通して、イエス・キリストによる救いの福音を伝えてくださることを感謝いたします。

下から上へという人間の知恵や努力によって神に近づくことはできませんので、あなたが備えてくださっているイエス・キリストという門を通ってしか私たちが救われる道は他にないことを覚えて、主にあって歩むものとならせてください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。